ノンタイ
中学生の頃はスポーツをやっていた
どういう肩書きだったかは忘れたけど、指導に来てくださる臨時コーチのような方がいた
その人は本当に上手で、私は衝撃を受けっぱなしだった
私は真面目だったので、毎日のように担任に提出していた日記にもそのことを書いた
「相当頑張って努力をしないと、このようなレベルにはなれないのだと思いました」と書いた
素直にそう思ったのである
担任から返ってきた日記には、次のようなコメントが書かれていた
「その人を見て、『努力をしてきた人』だと思えることが素晴らしいです」
当時はこの言葉の意味をよくわかっていなかった気がする
今なら少しはわかる
恵まれている人、優れている人、満たされている人を見て、何を考えるか
歳をとるにつれ、そういう人々を「センス」や「才能」、「生まれ持ったもの」という言葉で片付けるようになっていたのではないか
今思えば、中学生の時の私はよくぞそんなことを書けたものである
すごい人に対して、「この人は努力をしてきたからすごくなった」と素直に感じることができていた
そしてそのことに気付き、私自身のことも認めてくれた担任は偉大だった
生徒の日記ひとつとっても、適当に読んで適当なコメントを書かずに、しっかりと向き合ってくれているのが嬉しかった
ということに気付いたのがここ数年の話
この時の感性を忘れたくないな
「すごい人」になるためには努力をせねばならんのだ